3.11 東日本大震災 Column フクシマ 未分類 熊本地震 環境 防災

防災番組出演

2020年10月24日

今年2月に出演した「サロン・ド・防災」の内容がHPにアップされました

https://www.itscom.co.jp/safety/interview/679/

以下、転記

プロフィール

私は、大学卒業後、広島と仙台で合わせて8年間、放送局のアナウンサーとして経験を積み、2013年から東京でフリーアナウンサーとして活動しています。リスナーの皆さんがご覧になったことがありそうな番組は、TBSの朝の情報番組「はなまるマーケット」でリポーターをしたり、直近ですと、NHK夜のニュース番組「ニュースウオッチ9」でナレーターを担当していました。またラジオではNHKの夜のニュース番組「NHKジャーナル」のキャスターを3年間務めさせていただきましたので、声だけは聴いたことがあるという方もいらっしゃるかもしれません。

私が防災に取り組むようになったきっかけは、仙台でアナウンサーをしている時に経験した「東日本大震災」です。あの日を境に、取材でお世話になった方やいつも番組を見てくださった視聴者の皆さんなど、大勢の方に会えなくなってしまいました。その後、防災士や福祉防災認定コーチの資格を取得するとともに、災害のたびに被災地を訪れて取材をしたり、ボランティア活動に参加しています。またそこで学んだ教訓を、担当している番組で発信したり、防災訓練などで伝えたりしているところです。

仙台で遭遇した東日本大震災

2011年3月11日からちょうど9年になりますが、地震が起こった午後2時46分、私は仙台市内の自宅マンションの7階にいました。その時の光景を今でも鮮明に覚えています。台所で野菜を茹でている時に小さな揺れがカタカタと来たのですぐ火を止めたのですが、その後大きな揺れで火にかけていた鍋がひっくり返ってきました。それから冷蔵庫の上に載せてあった30キロ近い重さの大型のオーブンレンジが空中を飛びまして、自分の方に落ちてきました。幸い、鍋やレンジを避けることはできたのですが、恥ずかしながら当時は何も地震対策をしていなかったので、ありとあらゆるものが降ってきました。

私が暮らしていた仙台市内は震度6弱だったのですが、まるで地球がひっくり返ったかのような揺れで、もちろん立ってはいられませんでした。台所にいては危険だということで、近くの玄関スペースに逃げましたが、その時脳裏をよぎったのが、ニュージランドのクライストチャーチでその年の2月に起こった地震で、日本人が倒壊した建物の下敷きになって亡くなられたというニュースでした。自分もこのマンションに閉じ込められてしまうのではないかという恐怖を感じ、玄関の扉を開けて外に逃げようとしたのですが、マンションから振り落とされそうな揺れになってきまして、とにかくドアノブを握ったまま、およそ4分間、ただただ揺れに耐えるだけで、揺れが収まるまで何もできませんでした。

今まで震度5くらいの地震というのは東京など、いろいろな所で経験はしていたのですが、やはり震度5と6の揺れは全く違いまして、本当に死の恐怖を感じました。それまでも、地震の際には、放送で「身の安全を確保してください」と皆さんに呼び掛けていたのですが、自分の家には安全な場所がなかったことを実感して、反省したというか、とても後悔しました。やはり普段から家の中を安全にしておくことが大切だとその時痛感しました。

74時間の緊急災害報道を経て

自宅で被災した後、放送局に戻りまして、そこから3日間、ほとんど寝ずに74時間の緊急災害報道に携わりました。私自身もヘルメットをかぶってスタジオに座って、緊急地震速報を出したり、余震に対応しながら地震の様子を全国の人に伝えたのですが、この時、放送局自体も被災しておりまして、社内でも棚が倒れたり、書類が床に散乱したり、そういった状況で何とか放送するという感じでした。実はその時放送局も停電していたので、非常用の自家発電機を使って電気を作っていたのですが、途中からそれも思うように機能しなくなり、30分間電波を飛ばせなくなり、放送すらできない状態になりました。その後、どうやって放送を出すようになったかと言いますと、スタジオからケーブルを引いて、中継車を使って電波を飛ばすようにして、スタジオに座って、衛星中継でお伝えするという状態で、最小限の電力を使って放送していました。社内では、スタジオ以外は真っ暗ですし、暖房も入れられず、寒さに震えながら放送するという状態でした。

このような状態でほぼ3日間寝ずに、食べることもほとんどせず災害報道に携わったのですが、意外とそういう時はアドレナリンが出ていたのか、眠いとか、お腹が空いたとか、疲れたとかそういう感覚もなく過ごしていましたが、震災の後、しばらくたってから体重を測ったら10キロほど痩せていたというくらい異常な状態でした。その後も1週間くらい放送局で床にタオルを敷いて、ダウンで身を包んで、ブルブル寒さに耐えながら横になって、汚い話ですが、お風呂も入れず、髪や顔も洗っていない状態で画面に出て状況を伝えるという感じで、自分たち自身も避難生活をしながら災害報道に携わっていました。

このような中で忘れられない番組があります。それは震災から9日たった20日に宮城県民向けに放送した番組で、行方不明者のお名前を2時間読み上げるというものでした。当時、宮城県警に寄せられていた、地震後に連絡のつかない方2528人全てのお名前を放送でご紹介しました。当時は固定電話や携帯電話も役に立たなくて、家族や友人の安否が何日間も確認できないという状態でしたので、放送を通して少しでも安否確認につながれば、という思いで放送しました。その他にも「避難所からのメッセージ」というタイトルで番組を作りまして、各避難所に行ってご自身のお名前と探している方の名前をフリップに書いていただいて、「私はここにいます。家族を見かけたら連絡ください」というようなコメントいただいたものを放送しました。こういった番組を通して、家族や親戚の居場所が分かった方もいらっしゃいました。当時はとにかく地元にある放送局として何かできることはないかと試行錯誤だったのですが、情報を伝えることが少しでも県民のためになれば、と思いながら放送を続けていました。

災害への備え

東日本大震災以降9年間、私は、災害のたびに被災地を訪れて取材やボランティア活動に参加してきました。そこで学んだ教訓を地域の防災訓練などでも伝える活動をしています。まずは、熊本地震から学んだ「家の中の地震対策」についてお話しさせていただきます。2016年4月14日、夜9時過ぎ、熊本県を震源とするマグニチュード6.5の地震が発生して、益城町で震度7など激しい揺れを観測しました。そしてその28時間後にさらに大きなマグニチュード7.3の地震が発生しまして、益城町などで再び震度7を観測したという地震でした。地震の後、益城町でボランティア活動を行った時に出会った女性の話をさせていただきます。地震が起きた時は夜9時過ぎということで、その方はベッドに入っていました。揺れと同時に停電になって、真っ暗闇の中でベッドの足にしがみついて体が飛ばされそうなのを必死で耐えていたそうです。この方は普段から防災への意識がとても高い方で、ベッドの周辺に懐中電灯、車のカギ、けが防止のスリッパなどを用意していたそうです。揺れが収まってから、停電して真っ暗闇の中で、手探りでこれらを探したそうなのですが、何一つ見つからなかったということでした。後で分かったそうなのですが、全て2、3メートル飛び散っていて、懐中電灯は真っ二つに割れていたそうです。震度7クラスの地震が来ると、物は飛んでいってしまいます。懐中電灯を備えている方は多いと思いますが、枕元に置くのではなく、フックに掛けたり、ベッドの足にくくりつけたりすることをお勧めしています。

この熊本地震の特徴は、皆さんも記憶にあると思いますが、余震が何回も襲いました。1日に200回、ひどい時は5分に1度の間隔で、震度4、5くらいの大きな余震もありました。そういった中で熊本市内の被災したお宅にお邪魔したら、冷蔵庫や開き戸の扉などをガムテープやゴムで押さえていたのですが、余震のたびに食器などが落下して割れてしまって危険だったそうです。余震が来る度に片付けても、また余震で落ちてしまう、というのを繰り返していたそうです。やはり事前の対策をしていない家というのは、被害を大きくするだけでなくて、復旧も遅くなりますし、家の中で避難生活を送ることも不可能になるのだということが分かりました。

私自身、去年出産しまして、お母さんになったのですが、赤ちゃんがハイハイしだすと家の中のいろんな所に行きますので危険がいっぱいだということに気付きました。例えば、うちの息子は、引出しが大好きで、開けたり閉めたりしては、指を挟むということを繰り返します。事前に引出しや扉にストッパーを付けていたら、子どもがけがするのも防げますし、ひいては防災にもつながります。防災について、ママを対象にお話しさせていただく時は、「赤ちゃんにとって安全な空間というのは、つまりは地震が起きても安全な家づくりにつながります。これは、防災のチャンスです」とお話しさせていただいています。防災グッズや準備しておく物のリストなど、いろいろあると思いますが、やはりそれぞれ、それが必要な意味がありますので防災訓練などでお話しする際には、先ほどの熊本地震のお話しのように、なるべく具体的な過去の災害のエピソードを交えてお話しすることで、各家庭で実践してもらえるようにお伝えさせていただいています。

在宅避難のためのローリングストックの勧め

「在宅避難」という言葉は、最近は身近になってきたかと思いますが、これは小学校や公共施設などの指定された避難所に行かず、自宅で避難生活を続けることを言います。特に都市部で災害が起きますと避難所に入りたくても入れない人が大勢出ます。建物の倒壊や火災で自宅を失った人は避難所に入るかと思いますが、建物自体に被害がない人は入れない可能性があるので在宅避難の備えを日頃からしてほしいということです。

実際に東日本大震災の時も仙台市内などの都市部では多くの方が在宅避難を経験しました。報道では、津波の被害や原発事故もあったので、なかなかそういう部分はお伝えできなかったかと思いますが、仙台市ではマンションの住民が避難所に行っても満員で入れなかったということもありました。また熊本地震でも避難所となっている場所が天井や照明の一部が落下して使えなくなるということもありました。そのような中で、実際に在宅避難をした方を私は取材しておりまして、その方の体験談をもとにどんなものを備えたらいいかということをいつもお話しさせていただいています。特に、在宅避難について取材させていただいた方に対して、後日「在宅避難経験後、意識は変わりましたか?」という質問をさせていただいているのですが、皆さん共通している答えは、「食糧などを備蓄するようになった」ということです。東日本大震災でのライフラインの復旧状況は、私が取材した仙台市内のご家庭ではプロパンガスは3日後の朝に復旧したそうですが、都市ガスは遅い地域では完全復旧に1カ月半かかりました。電気は5日後に復旧、復旧しても余震のたびに停電してしまったりしていたようで、水道は6日後に復旧したというお話しがあったのですが、復旧してからしばらくは飲めるような水ではなくて、サビが出ていて、完全復旧までには10日ぐらいかかったそうです。またガソリン、食糧も不足しました。

今後の災害でもこういった状況になることが予想されるので、水は1人1日3リットル×1週間分、そして食糧も1週間分の備蓄が必要だと言われています。皆さんいろいろと備蓄されていると思いますが、私のお勧めは「ローリングストック」です。ご存じの方も多いと思いますが、この「ローリングストック」というのは、カセットコンロなども備蓄しておくことが前提となりますけれども、カップラーメン、パスタ、カレールーなど、普段食べているものを1日3食×4日分、12食ぐらいストックしておいて、月に1、2度それを食べて、食べたら入れ替えてというのを繰り返していくというものです。それによって消費期限が1年とか半年とか短いものでも備蓄になるという方法です。冷蔵庫の中にも食材はありますが、停電になると機能しなくなるので、まず冷蔵庫の中の物から食べて3日ぐらいもたせて、その後ローリングストックの4日分と合わせて、なんとか1週間しのげると思います。このローリングストックを本当に重要だなと思ったのが、やはり東日本大震災の時で、あの時、最初は乾パンやアルファ米などの非常食を私も食べましたが、やはり炊き出しのおにぎりやお味噌汁にはかないません。この時、お腹が満たされるだけでなく「ああ、幸せだな」と、心も満たされたと感じたのを覚えています。このように、普段から食べているものが災害時に食卓に並ぶというのは本当に心の安心にもつながるので、ぜひ進めていただきたいと思います。こういった在宅避難ができるように皆が備えることで地域全体の防災力も高まることになるので、1人でも多くの方にきちんと備蓄をしてほしいと思っています。

被災地支援の力

私が被災地支援の力を実感したのは、東日本大震災の時でした。当時私は仙台でアナウンサーをしていたのですが、放送している私たち自身もこの世のものとは思えない光景を受け止め切れず、「私たちがしていることに意味があるんだろうか」と無力さを感じていました。編集マンもカメラマンも涙を流しながら取材活動や放送に携わっていたのですが、私たちは自分自身の家がなくなったわけでもなく、家族を失ったわけでもなかったのですが、この現実を受け止められなくなってしまっていました。そうした中で、1週間後に津波被災地を取材した時に、警察車両や災害復旧車両に書かれた兵庫県、沖縄県、広島県などの地名を見て、ハッとさせられ、こんなにも全国の人たちが応援してくれていることに気付いて、胸が熱くなりました。

また、被災された方からこんなお話しを聞きました。「阪神淡路大震災や新潟中越地震などこれまでもいろいろな災害があったけれど、自分たちは大変だなと思うだけで、何もしてきませんでした。今、同じ立場になってようやく分かりました。こんなにみんなに助けてもらって、ありがたい。遠くから来てくれて、ありがとうございました。助かりました。ただただ感謝です。自分たちは何もできなかったのに本当に申し訳ないと思っています」と話されていました。私自身も東日本大震災に遭って初めて、これまで本当に他の地域のことについて無関心だったことに気付きました。でも今回の震災を通して、自分自身、変わりたいと思いました。それで、それ以来、災害があるたびに被災地の取材をしたり、災害ボランティアに参加したりしています。微力でも誰かの力になりたいという気持ちでいつも被災地に入っているのですが、地震だけではなくて水害、土砂災害の現場にも入りましたが、復旧というのは本当に気の遠くなるような作業です。東日本大震災の津波被災地である宮城県の東松島にもボランティアに入ったのですが、震災から4カ月ぐらいたっていたにもかかわらず、泥が乾いていませんでした。その泥かきをするのですが、水を含んだ泥というのはすごく重くて、しかも悪臭もしていて、本当に大変な作業でした。そのお宅の奥さんは、「毎日毎日泥との闘いで、頑張らなくてはいけないのだけれど、疲れてしまいました。でもこうやってボランティアの皆さんが助けてくれるんだから頑張らなくちゃ」と涙を流されていました。また2015年には、関東東北豪雨、茨城県の常総市で鬼怒川が決壊するという災害がありました。その時は、川から10キロほど離れたお宅のボランティアに参加したのですが、10キロも離れているのに浸水していて、そこのお宅の方も、「掃除しても掃除しても、拭いても拭いても砂が出てくる」と話されていました。被災された皆さんは、早くきれいにしたいという気持ちで一生懸命毎日掃除されていますが、復旧というのは長期戦になりますので、「ボランティアの力を借りながら無理しないようにしてくださいね」とお声掛けさせていただいています。

ライバル支援による復興への道

私は「ライバル支援」と呼んでいますが、普段ならライバル同士ともいえる同じ業種の支援の力というのを実感した取材がありました。それは、2011年の夏に宮城県の気仙沼市で行われた牡蠣養殖業者に対する支援でした。宮城県は牡蠣の生産量が広島に次いで2番目に多いところで、中でも宮城県の最も北に位置している気仙沼市は全国有数の牡蠣の産地です。東日本大震災の時に、10メートル以上の津波が襲った唐桑町という地域では、牡蠣の加工施設や海に浮かんでいた1700台のいかだの全てが流されてしまいました。その状況を見ていたライバルの広島の牡蠣養殖業者が「何かできることはないか」ということで、牡蠣養殖に欠かせないいかだをプレゼントすることになりました。そして、いかだをただ贈るだけではなく、実際に気仙沼を訪れて一緒にいかだを作るという支援をしてくれました。しかし、気仙沼と広島の牡蠣の養殖業者さんたちは、震災以前は会ったこともない上に、地域によっていかだの作り方も違うため、なかなか思うように作業も進まず、さらに広島弁と気仙沼弁という言葉の壁もあり、コミュニケーションがなかなかとれませんでした。しかしながら、初日の夜に交流会が行われまして、そこで一気に距離が縮みました。お酒が入ったおかげもあってか、気仙沼の牡蠣の養殖業者の皆さんも本音お話ししはじめ、震災の時の話や復興したいけどなかなか進まない気持ちなど、それぞれ本音で話したそうです。やはり同じ牡蠣養殖業者ということで、おいしい牡蠣を作りたいという牡蠣に対する思いは一緒なので、最後は「お互い日本の牡蠣産業を盛り上げていきましょう」という話で盛り上がりました。その翌日からのいかだ作りは、本当にスムーズにいきまして、お互いのやり方を学び合い、心の通った復旧作業になりました。何もない海に次々といかだが浮かんでいく様子を見て、気仙沼の養殖業者の皆さんの表情もどんどん明るくなっていきました。震災で全てを失って、もう牡蠣養殖も続けられないと廃業を考えていた方が多くいたのですが、この広島からの支援をきっかけに、「もう一度頑張ろう」と再開を決意された方が何人もいました。「本当に復興したらライバルになりますから」と、そんな力強い言葉まで頂きました。

一方の広島の養殖業者の皆さんも、自分たちが行くことが本当に役立つのかと不安に思っていたそうです。1人に1台、2台というような、そんなささやかな支援だったということもあり、「本当に役に立つのかな?」という気持ちだったそうなのですが、気仙沼の養殖業者の皆さんにとっては、やはりライバルがわざわざ離れた所までやってきて、一緒に汗を流して、そこまでしてくれたのに復活しないわけにはいかないと、漁師魂に火が付きました。これは、ライバルを超えた男同士の絆、まさに同業者だからこそできる心の支援だと感じました。

その後も復興するまでさまざまな試練がありまして、2017年には台風被害が発生し、気仙沼の牡蠣は約数千万円の被害を受けてしまいました。1歩進んでまた2歩下がってという状態で、そのたびに何度も廃業した方がいいのではないかと考えたそうですが、やはり広島の養殖業者はじめ、いろいろなボランティアの方からの支援を受けたことを思い出して、その人たちのことを考えるとやはり頑張らなくてはいけないと、気持ちを奮い立たせることができたと話されていました。もし途中で諦めてしまって、地域の産業がなくなってしまえば、その地域に暮らすこと自体が難しくなりますし、過疎化も進んでしまいます。そのような中で、遠く離れたライバルが支援してくれたことで、同じ業者だからこそ必要な支援もイメージしやすいですし、その支援は大きな助けになりました。お互いにそれ以降も、広島と気仙沼の牡蠣養殖業者の交流はずっと続いています。広島で土砂災害が起きた時には、今度は宮城の養殖業者が義援金を送り、距離は離れていても、心はつながっていて、お互いのことを思いやる大切な関係が築かれていました。こういう支援の輪がいろいろな所でできたらいいなと感じました。

地球環境を考え、防災に生かす

2017年に九州北部豪雨が起こり、河川が氾濫、土砂災害が発生して、福岡、大分、合わせて40人以上の死者、行方不明者が出ました。その被災地、福岡県東峰村にボランティアで入りました。東峰村の山間というのは植林された杉の人工林が多く、根が浅いため大量の雨が降ると地表面の地層とともに木々が崩れ落ちる表層崩壊が発生しやすいそうです。現場では直径50センチを超えるような大木が流木となって積み重なっている光景に衝撃を受けました。このような、かつて林業が盛んだった地域において、木の管理が行き届かなくなると、木がそのまま山に放置されてしまい被害を大きくする要因の1つとなることが分かりました。防災という観点からもやはり林業、森林整備を考えていかなくてはいけないなと感じた出来事でした。

最近では、地球温暖化の進行に伴って特に各地で気象災害が多発するようになっており、雨の量も降り方もこれまでとは変わってきていますし、台風も変わってきています。2019年の台風19号は皆さんも記憶に新しいと思うのですが、台風が来る前日、近所のスーパーマーケットに行って棚の商品がほとんどなくなっていることに驚きました。恐らくメディアの呼び掛けで、多くの人が危機感を持って行動されたのかと思いますが、もし日頃から災害に対して備えていたら、そこまで慌てる必要はなかったかもしれません。それでも台風をきっかけに少しでも備えが進んだということに私自身は希望を感じました。最近では、毎年のように災害が起きているので、皆さんの意識も少しずつ変わってきて、災害に対する備えも少しずつできているように感じています。

先日、2019年の台風で堤防が決壊した長野県の被災地を訪れた際に、そこで被災された方が、「気候変動が大きくなって、この地域がまた浸水するのではないか」という心配をされていました。専門家も、「地球温暖化の影響もあり、これまでにないような激甚な災害が起こることを前提に備える必要がある」と警鐘を鳴らしています。世界に目を移しますと、気候変動を起因とする災害が多発しています。2019年9月から被害が拡大し続けているオーストラリアの森林火災では、日本の半分の面積が焼けてしまったという報道もありました。熱波、乾燥、豪雨、洪水、高潮などなど、地球温暖化によって災害が新たなフェーズに入っているように感じます。私たち皆が、地球全体で力を合わせて、二酸化炭素の排出を防いで温暖化を抑えることが大切であり、それがひいては、防災減災につながるのだということを心に留めていただければと思います。

地球温暖化対策と防災

日本は、二酸化炭素の排出量が、世界で5番目に多い国となっています。排出の内訳を見てみますと、エネルギー転換部門がおよそ40%、産業部門が25%、続いて運輸部門、家庭での排出量というのは5%となっています。そのような中で、地球温暖化対策として、具体的な取り組みを考えると、個人では節電する、極力車に乗らないなど、コツコツ毎日の生活の中で積み重ねていくしかないことになるのかと思うのですが、一方で、どんな選択をして消費活動をするのかということもエネルギーの転換部門や産業部門を変えていくことにつながっていきます。例えば、日々の買い物をより環境にやさしい選択にしていく方法としての「フードマイレージ」という言葉を聞いたことがあると思いますが、その食べ物がどれぐらいの距離を運ばれてきたかを考えるということです。輸送にはCO2が伴いますので、輸入されたものよりも国産、地産地消、地域のものを選んでいくことで、自分の選択で変えていくということです。売り場ではまず値段が大きく表示されていますが、それと同時に「フードマイレージ」、輸送の過程や生産で出たCO2の量が表示されていたらもっと意識も変わりやすいかと思います。また自分の会社についても、企業でできるCO2の削減の方法を考えてみるのもひとつの方法かと思います。

去年話題となったスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんのように徹底した生活を送るのはなかなか難しいと思いますが、彼女は、「未来の全世代はあなたたちに注目している」と話しています。私たちは今まさに地球温暖化の危機に直面していて、その歴史の転換点を生きています。ですので、これからは防災と環境をセットで発信していく必要があるのではないかと感じています。

環境に関して、もうひとつお話しさせていただきたいのが、「原子力災害」についてです。東京電力福島第一原子力発電所の事故について取材していますが、福島を何度も訪れて被災された方のお話しを伺っている中で、ひとつ忘れられない言葉があります。それは、「近くても遠い故郷」という言葉で、原発の傍らに暮らしていた方がおっしゃっていた言葉なのですが、その方はいわき市内に避難されていて、自宅はいわきからすぐで、車で行ける距離なのですが、自宅に帰ることができないということです。「近くても遠い故郷」これは、とても重い一言です。私も、警戒区域内を取材しましたが、季節の移り変わりとともに桜が咲いたり紅葉したり、これまでと変わらない自然な時間が流れていて、匂いがするわけでも何か感じるわけでもない、さらに言えば空気はつながっているわけで、でもそこに住むことができないわけです。2020年3月をめどに避難指示を解除する、一部解除するというような話を聞いていますが、震災から9年たっても故郷に住むことができないし、廃炉はまだまだ何十年もかかるそうで、本当に原子力災害がもたらすものを突き付けられています。

エネルギーの地産地消という動き、皆さんも共感して使っているかもしれませんが、地域で電力を作って地域で使う、この動きというのは災害が起きたときのライフラインを考えても、より災害に強い地域づくりにつながります。そのため、エネルギーのことを考えることも防災につながることだと思います。

最近、「SDGs:持続可能な開発目標」という言葉を聞くことが増えたように思いますが、SDGsとは、国連サミットで採択された2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。2030年というと、これからちょうど10年後であり、これからの10年でこの防災と環境をセットにして考えた取り組みが全国で広まることを祈るとともに、私自身もその動きを取材して伝えていきたいと思っています。

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