NATSUMI OKUMURA

奥村奈津美

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東日本大震災から9年…地元放送局も被災

By Published On: 2020年3月12日Categories: 防災コラム, Column, 3.11 東日本大震災0.2 min read

2011年3月11日午後2時46分、その後。

東日本大震災直後、自宅マンションから避難した後、仙台市役所へ向かったのですが入れず。「倒壊の危険がある」と中から出てくる人に言われました。そこで取材の指示を仰ぐため、局に電話しようとしましたが、携帯電話はつながらず。公衆電話を探しました。

というのも、震災の二日前、仙台駅で取材中、最大震度5弱の地震があり、津波注意報も発表されたんですが、その時、駅の公衆電話は繋がりました。その経験から公衆電話を見つけかけてみたのですが、何の音も鳴らず。。。

そこで、今度は宮城県庁の記者クラブへ走って向かいました。
当時、そこで電話取材したノートを見ると、地震で倒れてきたものによる圧死や、高所作業車からの転落死など、そういった被害状況が入ってきていました。
その後、村井知事の会見の取材中、津波の第一波を知ったように記憶しています。

日も完全に暮れたころ、局から迎えの車が県庁に到着し、会社に戻りました。
そして、そこから3日間ほどんど寝ずに、74時間の緊急報道に関わりました。

スタジオに座って、ヘルメットをかぶり、緊急地震速報や余震に対応しながら、全国の人へ伝えました。あの時は、なかなか被害全体の把握できない状態で入ってきた情報をただただ伝えるしかありませんでした。

「どこどこで何百体のご遺体が発見されました」

「亡くなった方は何千人に上りました」

という、何の数なのか分らなくなるような、亡くなってしまった方の人数を繰り返し伝えていた。そんな記憶があります。

私たち報道陣も人間。心が全くついていきませんでした。

アナウンサーもカメラマンも編集マンも、涙を流しながら作業していました。
ただ、この状況を全国に伝えるのは自分たちしかいない、そんな使命感で感情を殺していたようにも思います。

もちろん放送局も被災していました。

社内も棚が倒れたり、書類が床に散乱したり。

実は、30分間、放送すら出来ない状態にもなりました。

というのも、この時、放送局も停電していたので、非常用の自家発電機を使って電気を作っていましたが、途中から思うように機能しなくなり、電波も飛ばせなくなりました。それで一時、放送ができなくなったんです。

それから、どうやって放送を出していたかというと、中継車を使って、電波を飛ばしていたんですね。スタジオから伝えているのに、衛生中継という状態になりました。

右側の建物が放送局。スタジオがある部屋の窓からケーブルを伸ばし、中継車を通して電波を飛ばしていました。

最小限の電力を使って放送を出していたので、社内は真っ暗闇ですし、暖房も入れられず、寒さに震えながら放送していたように思います。

このような状況で、ほぼ三日間、寝ることも食べることも忘れて、災害報道に携わりました。

しかし不思議と、眠いとかお腹すいたとか疲れたという感覚はなかったんです。恐らくアドレナリンが出続けていたのかなと思います。

震災後、体重を計ったら10㎏ほど痩せていました。それほど異常な状態でした。

一週間くらいは、放送局で寝泊まりしていました。

床にタオルをひいてダウンで身を包んで寒さに耐えながら横になっていましたし、お風呂にも入れませんでした。

自分たちも避難生活をしながら災害報道に携わってる感覚でした。
津波被災地域いの方などはもっともっと過酷な避難生活だったので、今だから綴れることですが…

忘れられない番組があります。

それは震災から9日経った20日、宮城県民向けに放送した番組で、行方不明者の名前を、2時間、読み上げるというものでした。

当時、宮城県警に寄せられていた、地震後に連絡の付かない方、2528人全てを、放送でご紹介しました。(宮城県警 行方不明者 相談ダイヤル)

固定電話や携帯電話も役に立たず、家族や友人の安否が何日間も確認できない状況だったからです。

その他にも、「避難所からのメッセージ」と題して、各避難所で、自分の名前と、探している方の名前を書いてもらい、「私はここにいます。家族を見かけたら連絡ください」など、コメントを頂いたものを放送したりもしていました。

こういった番組を通して、家族や親戚の居場所が分かった人もいらっしゃいました。

地元にある放送局として、何が出来るか、試行錯誤でしたが、情報を伝えることが少しでも宮城県民のためになればと、放送し続けていました。

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