Column ヒロシマ

86ヒロシマ

2015年8月6日

きょうは、8月6日 広島原爆の日です。

私にとって原爆は、「祖母の人生」そのものです。

 

祖母は、第二次世界大戦末期、広島市の西側、大野町にある海軍の造船所で働いていました。

8月6日

あの日も、祖母は船の甲板で、作業をしていました。

飛行機が一機見え、「おかしいな」と思っていると、

突然、ドーンと大きな音がして、

広島市内の方から、

白とも黒とも言えない、見たこともないような雲がみるみる立ち上がってきたのです。

その雲に驚き、

急いで船の下へ飛び降りた祖母。

しばらく、広島市内のガスタンクなどが爆発する音がし続けたと話します。

何が起きたのかは分からないけれど、何か大変なことが起きている。

仕事をしている場合ではないと、11:30頃の電車に乗りました。

車内は、異様な雰囲気で西広島駅から乗って来た人に

「広島は一大事だ」と聞き、胸騒ぎがしました。

そして、祖母の家がある玖波駅で降りたとたん、別の車両から降りてきた人に驚きます。

裸足で裸なのです。

次の電車からは、死んでいる人、

火ぶくれして皮膚が垂れ下がり、お化けのようになった人が、

次から次に運ばれてきました。

ただごとではない。

役場に行くと、昼間にトラックが広島へ応援に向かったと聞きました。

この日は、玖波の町からも、広島市内へ義勇隊として、100人近くの住民が建物疎開に行っていました。

祖母の親類も何人も広島市内に住んでいました。

広島へすぐにでも行って探したい。

そんな気持ちを抑えて、家で待つ親類の子供たちの世話に追われました。

日も暮れかかった午後6時。

同級生の男の子が全身焼けただれ、裸で運ばれてきました。

爆心地から500mほどしか離れていない場所で建物疎開していたところ、被爆したというのです。

懸命に看病しましたが、翌朝2時ごろ、息を引き取りました。

 

8月7日

親類や近隣の人たちと一緒に、亡くなった人を荼毘にふしました。

と、言っても火葬場は一つしかないので、自分たちで焼きました。

掘った穴は90以上。亡骸を入れ、薪を積み、火を放ちました。

 

8月8日

親類を探しに、朝早くから祖母も広島市内に向かいました。

爆心地から700mの所に、姉妹2人が住んでいたのです。

二日経っても安否が分からず、絶望的になりながらも、

地元の港から親類7,8人一緒に船に乗り込みました。

広島市内に近づくにつれて、海にも牛や馬が流れて浮いていました。

元安川から北上していったのですが、川には、まだたくさんの死体が浮いていました。

兵隊が船で死体を回収していましたが、下から次から次に浮き上がってくるのです。

原爆ドーム近くにある雁木から陸に上がりました。

見渡す限り何もない。

道にも真っ黒に焦げた死体が何体も転がっていて、真夏の暑さの中、異臭が漂っていました。

親戚の家があるはずの場所にたどり着きましたが、家は跡形もありませんでした。

そこらじゅうの土を掘って骨を探しましたが、見つかりませんでした。

ただ、その後、9月になってから分かったそうなのですが、

この親戚の二人は、奇跡的に生きていました。

二人とも、爆風で川に飛ばされたところを、兵隊の船で救助され、救護施設に運ばれていたのです。

一人は、翌10月に亡くなってしまいましたが、

もう一人は、それから30年生きました。

しかし、放射能の害を受けていたため、全身癌に侵されて亡くなってしまいました。

 

広島から30キロほど離れた玖波の町にも、被爆した人が何百人もトラックや電車でどんどん運ばれてきました。

広島市内の救護所に入りきれない被爆者たちです。

学校が仮救護所となり、負傷した人を薬もない中、火傷に食用油を塗ったり、

玖波の町の人たちが手当てをし続けました。もちろん、祖母も借り出されて看病しました。

体中、放射能に冒されているため、亡くなった人からは、毒ガスのような臭いがしたと言います。

終戦後、9月下旬まで負傷者の看病は続きました。

「看病した人が亡くなるということが度々あった。

おかしいなとは思っていたけれど、それどころじゃなかった。

今思えば、放射能の恐ろしさを知らなかったからこそ、救護に行かれた」

と、祖母は話します。

しかし、入市被爆、二次放射能の被害を受けた祖母は、それから原爆が齎した苦しみと闘い続けることになります。

9月に入った頃から、髪の毛が抜け、歯茎から血が出て、体がえらく(しんどく)なって…

2、3ヶ月、寝込んだそうです。

ドクダミなどの薬草を煎じて飲んだりしましたが、

その後も、低血圧、貧血がひどく、調子の良くない日々が続きました。

それから、10年以上経った昭和39年に子宮癌に、

そして、50年以上経った平成12年、副甲状腺の癌に、

さらに、60年以上経った平成20年、肺癌になりました。

あの一瞬の出来事が、その後、祖母の体を支配し、人生を左右しているのです。

現在89歳の祖母は、いつも明るく、てきぱき家事をこなし、お出かけも楽しんでいて、

一緒にいると「元気なおばあちゃんですね」と良く言われます。

でも、本当は常に病気と闘っている、ものすごく強い人、強いおばあちゃんなんです。

病気になっても「またすぐ元気になるから」と前を向いて乗り越えている

祖母を心から尊敬しています。

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原爆で焼け野原になった広島は、大きな町へと復興しましたが、

70年経っても消えない苦しみがあり、

それに耐えながら生きている人たちがいます。

原爆さえなければ…

祖母の話を聞いていると、その思いばかり強くなります。

ただ、思いとは裏腹に

世界の核兵器は無くならないですし、

日本は東京電力福島第一原子力発電所の事故で、あらゆる被害に苦しみ続けています。

 

「核と人類は共存できない」

 

70回目の原爆の日

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